三宅村指定旧跡
生島新五郎の墓
(いくしましんごろうのはか)

昭和47年2月20日指定

 

 三宅島一周道路から伊ヶ谷港(いがやこう)に降りる道沿いに、生島新五郎の墓がある。墓石の色は、上が白色で下が黒色と、上下で異なっている。生島新五郎は、江戸時代中期の歌舞伎役者である。1500人ほどもが処罰された風紀粛正事件「絵島生島事件」で、三宅島に配流された。
 権力闘争渦巻く江戸城内で、山村座での芝居見物をきっかけに、権力者である大年寄の絵島と役者の生島新五郎との密通が疑われた。生島新五郎は、石抱きの拷問にかけられ、絵島と情交があったと白状した。一方の絵島は、うつつ責めの拷問にかけられたが頑強に否定している。この事件は死罪まで出されるほどで、絵島は死罪のところ信濃の高遠藩に幽閉となった。生島新五郎は三宅島に配流となった。

 

 高遠(現:長野県伊那市)の高遠町歴史博物館には絵島が幽閉されていた「絵島(えしま)の囲み屋敷」が復元されている。また、絵島の墓は、高遠の蓮華寺にあり、そこには絵島の像も設けられている。三宅島では絵島と生島新五郎とは男女の仲という扱いのようだが、高遠町歴史博物館の展示や出版物『絵島事件はこうして起こった』ではそのような扱いにはなっていない。
 なお、三宅村と高遠町(現:伊那市)とは、絵島と生島新五郎との縁で、1970年(昭和45年)に友好町村盟約を締結している。

  

参考:
・北條元那(2000年(平成12年))『絵島事件はこうして起こった』しんこう社
・三宅島史編纂委員会(1982年(昭和57年))『三宅島史』pp.835-837.ぎょうせい
・池田信道(1983年(昭和58年))『三宅島の歴史と民俗』pp.88-106.伝統と現代社
・池田信道(1973年(昭和48年))『三宅島百話』pp.51-66.島の新聞社

  

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